yumekaze61’s diary

思うことを気ままに

迷子の心

好きとか嫌いとか

昔から時々分からなくなる

 

その好きが本当に好きなのか

義務感から好きだと思い込んでるんじゃないかって思ってしまって

ふと自分を疑ってしまうんだ

そうすると形なんてないものだから

正解なんて分からないものだから

行き着く先が『不安』でしかない

 

その嫌いが本当に嫌いなのか

生理的に嫌悪するものは分かりやすいとして

ヤらず嫌いって結構あって

本当に嫌いかなんて体験してもいないのに

なんとなく嫌いって思い込んでしまって

行き着く先はたぶん嫌いというより『恐怖』かもしれない

 

理解できないもの知らないものは

『恐怖』で『不安』

 

形のない好きとか嫌いの気持ちは

どうやったら見えるのかな

 

失ってから気づく好きは悲しすぎるし

泥沼にハマってからの嫌いは苦しすぎる

 

そうやっていつだって

心は迷子でキズだらけ

君の膵臓を食べたい

死について考えるのが好きだ。

いや、死に思い更けるのが好きだ。
死を想像するのが好きだ。
死を想像して涙を流すのが好きだ。

決して死にたいわけではないし
死んだことがないから死の恐怖も知らない。

だから死を想像するのが好きだ。

もし本当の死を経験したり
死が目の前に迫る状況になったら
きっともうそれは楽しむことが二度と出来ない。

ある時は死ぬときに誰が側にいるかもしくは独りなのかを想像する。
ある時は死の原因を想像する。
ある時は死ぬ時の環境を想像する。

今日は君の膵臓を食べたいという作品を観た。
誰かが死ぬとわかっているものは絶対に泣きすぎるからあまり観ないのだけれど。
金ローでやってたからたまたま録画してみる気になった。

病気で死ぬんだとなぜか信じていた。
疑わなかった。
そういう話だろうと思い込んでいた。
違った。
人はいつか死ぬけども
いつ死ぬかは分からないし
死に方を選べるとは限らないことを思い知らされた。

死とはそういうものだろうに、
それでも私たちは忘れてしまう。
自分は死ぬんだということ。
身近な人も死ぬんだということ。
生きていることは奇跡なんだということ。
なんだかんだで生かされていることに感謝しよう。
全てが素晴らしいと思える人生でなくとも。

だから私は時々死を想像する。
死ぬ時間も死ぬ場所も死ぬ理由も選べないけれど。
死ぬ時に残していく身近な人たちにちゃんとお別れを言えるかなとか
突然何でもない道ばたで急に1人で死んだりするのかなとか

君の膵臓を食べたいを観たこの夜
外を散歩しながら

穏やかな心地よい風の吹く
素敵な月夜に静かに看取られて死にたいな

そう思った。